今日はいい話です。


またまた電車内での話です。

 

いつものように会社に向かう電車に、ある駅から若者が乗ってきました。時間的余裕があったので始発の千葉駅がら各駅停車で座っていました。膝の上には例の如くラップトップが乗っています。ちょっとした事務作業は記事を起こすことも含め電車の中でするのが習慣ですから。


若者の耳にはMDウォークマン。耳の穴のサイズの両耳イヤホーンでロックをガンガン鳴らしていました。当然その音は「シャカシャカ」と漏れてきます。一度顔をにらむと気が付く人もいますが、最近は周囲の事に鈍感な人が増えましたので、睨みがききません(笑)。


仕方なくPC画面に頭を切り替え事務作業に戻りました。


「シャカシャカ」

「シャカシャカ」「シャカシャカ」

「シャカシャカ」「シャカシャカ」「シャカシャカ」

「シャカシャカ」「シャカシャカ」「シャカシャカ」「シャカシャカ」


あれって不思議です。聞いてもいないのに、時間が経つに従って音が耳に入ってくる時間が長くなっていきます。何の曲か判ればまだしも、あの「シャカシャカ」だけですから、だんだんイライラさせられます。


表情からすると、それほど悪そうなお兄ちゃんではありません。作業の邪魔になりますから思い切って声をかけることにしました。


人差し指で彼の二の腕あたりを「トントン」


彼は驚いた様子で慌ててイヤホーンを抜きました。


少しボリューム下げてもらえます?


あ、あ、あ、すいません。


ごめんね、ちょっと作業しているもので。


ええ。


そう言いながら彼はボリュームを大きく下げました。

外から全く聞こえなくなるくらいまでです。

そしてこう言いました。


これで大丈夫ですか?


なかなかの好青年です。

もしくは私が強面に見えたのかどうか・・・(笑)。

これで2人とも気分良くそれぞれの時間を過ごせます。

変な鍔迫り合いも起こらず、ストレスも貯めず(笑)。


で、ある事を思い出して、また彼の腕を「とんとん」


またビックリした様子で慌ててイヤホーンを外す彼。

そこでひとこと、


「どうもありがとう。さっき言い忘れましたね(笑)」


軽い会釈をした後、その平和な電車は進み続けましたとさ。

Kairo

CEL-DE-KAIRO (セルデカイロ)

ファーストアルバム 「KAIRO」

 

☆いよいよ全国区です。

大盛況だった7月12日・13日

愛・地球博 トワイライト・コンサート

新しいファンの方もたくさんHPに来られるようになりました。

フリーライブが目白押しです。

・7月24日(日) ガーデンウォーク幕張 ⇒詳しくはこちら
  サンフラワーウォーク2Fステージ14:00~、17:00~

・7月31日(日) 横浜マリンライブ ⇒詳しくはこちら
  マリンタワー前広場16:00~16:30

・8月5日(金) 東京ブレイクステーション ⇒詳しくはこちら
  東京駅ブレイクステーション17:30~18:00

・8月12日(金) ラ・フェット多摩 南大沢  ⇒詳しくはこちら
  メインステージ14:00~、16:00~、18:00~

 

 

二人の記事が雑誌に掲載されました。

 

BULE TAGプロジェクト の公式テーマソングに

 「凛と咲く花のように」が採用されました。

BLUE TAGのHPにプロデューサーの森友嵐士さんの

 熱いメッセージ が掲載されています。

 


    
彼らのHPの中では、全曲歌詞を読むことができます。
それぞれの歌詞のところには試聴ボタンがあり、
8曲全てを試聴できるようになっています。
こころが休まる歌ばかりですので是非お聴きください。
ほのぼのBBS も一度のぞいて見てください。

1.凛と咲く花のように 
2.さよならばかりの恋
3.僕の心に色をくれた
4.空から君を守りたい
5.大切な君
6.カイロ
7.交差点
8.凛と咲く花のように(St.Ver.)


「おっ?いいじゃん!」と思った方は↓↓↓をクリック!

         ファーストアルバム「KAIRO」

 

8曲で2000円はお買い得です(笑)。
もちろんCDショップでも注文することができますが

やはりライブ場所で買うのがいちばんです。

快くサインなんかももらえちゃいますから(笑)。

ストリートライブは毎日都内のどこかでやっています。
私も生で聴いてしびれましたから(笑)ぜひぜひお勧めです。
ストリートライブ場所は毎日午後にここ でお知らせがあります。


では、どこかのストリートでお会いしましょう。

今日は親バカ。


双子の息子達が中学に上がって部活を始めた。

もちろんサッカー部

ふたりともまだ体は細いが、足がとても速い。そのふたりとも「総体(総合体育大会)」のベンチに入ることになった。一年生から選ばれたのは3人だけ。当然ふたりともサブだけど頑張っている姿はとても頼もしい。


その部活で「塾」を理由に活動を休む生徒がいる。うちの5人の子供達には「塾通い」させたたことがない。家族でもっとも大切な「団欒」を犠牲にしてまで「詰め込み教育」を受けさせる意味を理解できないからである。

そのかわり風呂を寺子屋的空間と位置付け、いろいろな話をしてきた。浴槽に3人で座ってタイルを黒板代わりにするが、チョークは使えないので指でなぞった字や数字を頭の中で映像にさせる。今でもそんな風に一緒に風呂に入り、時には一時間くらい入っていたことも・・・。ほとんど茹で蛸(笑)。


彼らにわかりやすくいろいろな話をした。


宇宙のこと。

自然のこと。

動物のこと。

植物のこと。

環境のこと。

科学のこと。

歴史のこと。

算数のこと。

英語のこと。

読書のこと。

政治のこと。

海外のこと。


ふたりともいつも目をキラキラさせて聴いている。一分だけおにいちゃんのかっちゃんは頭の中でのファイリングがとてもうまい。数学のように法則性のあるものの理解力が高い。性格も負けず嫌いだから自分で勉強していることが多くなった。中学になって初めてのテストで驚くほどの好成績を上げた。塾など行かなくても結果を残している事をほめてあげたい。


一分遅れで弟になったたっちゃんもかなりの好成績。かっちゃんにちょっとの差をつけられたことが悔しいようで、次回はより一層の努力をしてくれると思う。勉強ではちょっと負けたが、サッカーではたっちゃんの方が少し上。今回の総体でも後半残り10分くらいで投入されたらしい。限られた出場時間なのに得点したこともあり、それも一度だけではない。


一年生なのに大切な試合に出ていることに驚いてしまう。敵チームは3年生中心だからフィジカルは完璧に負けてしまう。「さすがにきつい」と漏らしているが、一年生から試合慣れしていれば、上級生になった時にはそれが十分に生きる事だろう。


昨日のスーパーサッカーでアルゼンチンのアイマールが出演していたが、彼も体は大きくない。なのに世界レベルのプレーヤーに数えられている。彼のインタビューでとても印象的な言葉があった。

 

「サッカーは体でするのではなく、頭でするもの。」

「楽しんで練習をすること。」

 

簡単な言葉だがその意味は深い。

今は体の細いふたりにその話をしたらとても納得していた様子だった。

 


勉強とサッカー。

充分両立させている彼らに乾杯!


(親バカちゃんりん、お許しを・笑)

国内出張中・・・・・



ブログを含め作業しようと思ったら・・・・・


ACアダプターを家に置き忘れ・・・・・


Panasonicだから7時間はもつけれど・・・


もう赤ランプになっている・・・・・


切れる前に入力しないと・・・・


ギリギリセーフか・・・・・


というわけで・・・・・・御免!



いつから日本人はこんなに譲り合うのがヘタクソになってしまったんだろう・・・。


千葉駅から快速に乗って2駅目の津田沼からあるの男性が乗ってきた。私は幸い席についてブログの原稿を書いていたのだが、その横に滑り込むように座るや否や、カバンからハードカバーの本を取り出して読み始めた。


チラ見したところ「ライフル」という文字があったが、まさか千葉にマタギがいるはずもなく(笑)、恐らくはスポーツとしてライフルを扱う競技者か、若しくは指導者かもしれない。いわゆるスポーツマンであるから「ルール」に対しては守る男だとある期待をした。


電車の中で隣に座る人種がかなり重要であることは皆さんも経験上ご存知だと思う。臭いや振舞いやその他迷惑行為などが及ぶととんでもないことにもなりかねない。今日はスポーツマンだからと思って安心したのだが、しかしそれは甘い考えだった。


こちらはPCを取り出しこの原稿を書いているのであるが、その形が面白くないのか非常に挑戦的に攻撃を始めた。まずは。これでもかというほどにしっかり開いて太ももを密着させてきた。私にはその気はないので気持ちが悪く少し膝を閉じ気味にした。普通であればその空間をふたりで共有し、おぞましい密着状態を防ごうとするはずである。


ところが、その男は一歩引くと一歩攻めてくるタイプの人間だった。まるでどこかの国の人のようである(笑)。ひょっとしたらそうかもしれないと思うほど膝での攻めは続いたのである。


それだけならまだしも、今度はを必要以上に広げてその鋭い肘を私の腕に突き刺してくる。上下で攻めの体勢を受けた私は、もう少し体をずらした。すると再度踏み込んだ攻撃を受けるようになった。


よほど負けず嫌いのスポーツマンなのかもしれない。座る寸前に軽く会釈をしたので、会釈を返したのだが、ひとたび自分の席になると傍若無人さが芽吹いてくる。M字になった額と短髪の中に多数見える白髪から考えると50代半ばか・・・。えっ?そんなオヤジだったのかと本当に驚いた。


これでは若い人たちの傍若無人さを批判できるわけが無い。でもこの御仁もライフルを持つとそのキャリアから「偉そうに」振舞ったり、または「親切に」指導したりするのであろうが、それがどうしてこういう行為を無神経にできるのかが不思議である。彼の仲間や後輩にはこのような姿を見せないのであろうが、実は言葉の端々やちょっとした仕草の中にそれを垣間見る事ができる。


「お里が知れる」というのがそれである。


少しずつの善行を積んでやっと幸せな状態になるのが人生である。あの年になっても、こんなつまらない事の積み重ねがその道を遠ざけていることに気が付かないのであろうか。いや、聞くまい。降り際に人相をチラッと見た時にその全てを計り知る事ができた。


口角は下がり、幸せのかけらも見えないような皺の付き方。「小言」を人相にするとああいう顔になるのであろう。ああなると残りの人生でリカバーすることはほぼ不可能だと思った。気の毒な御仁である。


それはそうとわが国は「袖刷り合うも他生の縁」という人生観を持つ国である。それは時代や性格を超えて日本人の心の中には存在していると信じたい。このような無駄な摩擦を避けるためには、JRを初めとして全ての鉄道会社にモノ申したい。車内の長い席は7人掛けとなっているが、そもそもそこに問題の種があるように思う。


毎年学生の「平均体型が向上」との報道をよく目にするが、昔から考えるとみんな大きくなっているのである。私のように(笑)オヤジ体型の如く横に伸びている若者も多くなった。席の数は私が上京してきた時にはすでに7人掛けになっていたと記憶しているが、それはほぼ30年も前の話。その頃から毎年毎年少しずつ窮屈になっているのである。


海外では見知らぬ人との肉体的接触を非常に嫌がる人が多く見かけられる。電車やバスが超満員であれば、急いでいないかぎり一本見送り次のに乗る人もいるほど。狩猟型民族にとって、自分の居住場所以外で他人と接触するということが、キリスト教的性悪説の中では戦いの序章に発展する可能性が十分にある。外国人はよく笑顔を見せるが、それは戦いを避けるための生活の知恵なのだ。


仏教的・儒教的人生観を持つ日本人が少なくなってきたが、戦いを避けるための笑顔をもたず、数十年前に決められた狭いスペースに押し込められれば、誰だって不愉快な思いをする。我慢したり譲り合う気持ちも、それを緩和する笑顔も持たずにいれば当然の如く小競り合いになる。事実それが高じて車内暴力になり殺人に及ぶような事件(三軒茶屋)などをよく見るようになった。


こんなにつまらないことで無駄なストレスを貯めることは、その後いろいろな場所での暴発の遠因になっている可能性もある。日本の場合は大手が変更すればヨコナラビ意識から他社も追随するのは間違いない。JR若しくは私鉄大手のどこかが車両デザインを一新して、ゆったりと座れるようなつくりにすべきである。座席の希少価値が高まる事で、年配の方々に席を譲る人が増えるという副産物も期待できるかもしれない(甘いか・・・笑)。


あの「肘攻撃」が、廻り回って鉄道会社に対する改善要求に至ったのであるから、それほど無駄な「鍔迫り合い」ではなかったように思う。そんな風に考えられるなんて偉いなぁ、トレンチおじさん(笑)。

「謝罪」というタイトルだとまた日中・日韓のテーマだと思われるかもしれませんが今日はそちらのはなしではありません。

 

事務的に半端なく時間をとられていて、みなさんのブログに訪問したりコメントのお礼をつけたりするのが不十分になっています。なかなか時間が・・・・。時間の問題もありますし、そっちになかなか頭を切り替える余裕が無いというのが実情です。


ごめんなさ~い。

 

お許しください。もうすぐその時期も明けると思いますので。

でも明けたら東アジア選手権の時期なのでまたサッカー関係の記事が多くなりそうな・・・。それはそれで楽しみにしてくれている方もいますので・・・いいですよね(笑)。

Kairo

CEL-DE-KAIRO (セルデカイロ)

ファーストアルバム 「KAIRO」

 

☆いよいよ全国区です。

7月12日(火)、7月13日(水) 19:00~

愛・地球博 トワイライト・コンサート

長久手会場メインステージ

(セルデカイロのHPより)

 

 

二人の記事が雑誌に掲載されました。

 

BULE TAGプロジェクト の公式テーマソングに

 「凛と咲く花のように」が採用されました。

BLUE TAGのHPにプロデューサーの森友嵐士さんの

 熱いメッセージ が掲載されています。

 

今月のライブ  ←クリックして詳細をチェック!

7月18日(祝) 六本木morph 03-5414-2683

open18:30/start19:00 前売¥2,000-/当日¥2,500- 2

0:30頃の出演予定

    
彼らのHPの中では、全曲歌詞を読むことができます。
それぞれの歌詞のところには試聴ボタンがあり、
8曲全てを試聴できるようになっています。
こころが休まる歌ばかりですので是非お聴きください。
ほのぼのBBS も一度のぞいて見てください。

1.凛と咲く花のように 
2.さよならばかりの恋
3.僕の心に色をくれた
4.空から君を守りたい
5.大切な君
6.カイロ
7.交差点
8.凛と咲く花のように(St.Ver.)


「おっ?いいじゃん!」と思った方は↓↓↓をクリック!

         ファーストアルバム「KAIRO」

 

8曲で2000円はお買い得です(笑)。
もちろんCDショップでも注文することができますが

やはりライブ場所で買うのがいちばんです。

快くサインなんかももらえちゃいますから(笑)。

ストリートライブは毎日都内のどこかでやっています。
私も生で聴いてしびれましたから(笑)ぜひぜひお勧めです。
ストリートライブ場所は毎日午後にここ でお知らせがあります。


では、どこかのストリートでお会いしましょう。

以前は「不思議」というレベルだったアメブロランキングですが、ついに「怪」のレベルに達してしまいました。これをチェックするためにBlogのジャンルで新しくブログを作って調べてみました。当然ランキングチェックなのでそのブログでは記事らしい記事は書いていません。

日付 7月3日 7月4日 7月5日 7月6日 7月7日 7月8日 7月9日 7月10日
総合 17831 22135 20490 21628 21474 21518 25559 27133
前日比 -4304 +1645 -1138 +154 -44 -4041 -1574
ジャンル 821 1033 953 1008 999 1099 1289 1354
前日比 -212 +80 -55 +9 -100 -190 -65
訪問者 1人 2人 4人 2人 3人 3人 2人 2人

7月3日(登録初日)

訪問者 1人 総合ランキング17831位 ジャンル821位

ちょっと待ってください。自分しか訪問していないのに、かつ30万人以上の参加者がいるのにどうして総合ランキングが2万位より上なんですか?残りの28万人の人は開いてもいないということなのでしょうか?「Blog」のジャンルにも4400人以上の人がいます。なのに初日で821位???かなり怪しいです。


7月4日

訪問者2人 総合ランキング22135位 ジャンル1033位

友人に話しましたから訪問者は2人になりました。でもランキングは大幅に下落です。


7月5日

訪問者4人 総合ランキング20490位 ジャンル953位

訪問者が4人に増え、総合は上昇なのにジャンルは下落?解せませんね。


7月6日

訪問者2人 総合ランキング21628位 ジャンル1008位

依然として28万人の人は開いてもいないようです(笑)。


7月7日

訪問者3人 総合ランキング21474位 ジャンル999位

ひとり増えたら総合154位、ジャンルは9位アップしました。

初心者なら嬉しい反応してしまいそうな・・・(笑)。


7月8日(納得できない日)

訪問者3人 総合ランキング21518位 ジャンル1099位

前日と比較すると総合では44位ダウン

同じようにジャンルでは100位ダウン・・

 
えっ?何?どういうこと?

ジャンルで100位もダウンしているのにどうして総合ジャンルは44位しか下がっていないのでしょうこれで完全におかしいことがわかりました。システム化されていればこのようなミスはでるはずがなく、人為的な何かが行われているためこのような「人が犯すような凡ミス」が発生したのでしょう。故にアメブロランキング自体が恣意的なものだと理解できます。ひょっとしたら、今日現在31万のブログが登録されていますが、大半はアメブロさんがアカウントだけ作成して、それ以降はまったくノータッチにしているということなのかもしれません。客のいないレストランじゃあ入る気にもならないですからね。


7月9日

訪問者2人 総合ランキング25559位 ジャンル1289位

「訪問者を増やす努力をしていないとこうなるぞ!」そんな声が聞こえてきそうなランクダウン。2日目と同じくらい4000位程度下落しました。ジャンルも200位弱の下落です。初心者だったらちょっとショックを受けて、誰かのブログに訪問したりトラックバックしてて逆訪問でランキングアップしなきゃ、なんて考えちゃうでしょうね(笑)。

 

7月9日

訪問者2人 総合ランキング27133位 ジャンル1354位

あまり鞭打つのもかわいそうだということで下落幅は少なくなりました。総合で1574位、ジャンルで65位です。


毎日2~3人程度の訪問が今日で8日目です。それでも30000位にもならないということは、やはり28万人のブロガーは、ここ一週間記事を書かないばかりか、全く開いてもいないようです(そんな馬鹿な・・・)。


かと思えば、先日奇妙なブログもありました。「鬱」をベースに記事を書いていたようですが、ブログを始めて10日間程度でジャンル1位になり総合ランキングもかなり上になっていました。今調べたらブログが削除されていましたのでなんともいえませんが・・・。


全く信頼の置けないランキング管理で「心を弄ばれた」ような気がしましたのでランキングは外す事にしました。この記事についてアメブロさんからコメントいただけないかなぁ。納得できる説明を求めたいですね。





日本に対する非難の声ばかりが報道されますが、記事で紹介した国々の政治家からは下に紹介するような発言もあります。両方の声に耳を傾けてバランスの取れた感覚で日本という国とその歴史をを考えたいと思います。


インドネシア

アラムシャ第三副首相

日本軍政時代の3年半については、オランダ、チャイナ、アメリカなど、戦勝国の学者や、欧米に留学して日本が嫌いになった人々は、悪い面ばかりを誇大にあげつらっている。しかしそれでは全体を語ったことにはならない。


マレーシア

ラジャー・ダト・ノンチック元上院議員

この国に来られた日本のある学校の先生は「日本軍はマレー人を虐殺したに違いない。その事実を調べに来たのだ」と言っていました。私は驚きました。「日本軍はマレー人を一人も殺していません。」と私は答えてやりました。日本軍が殺したのは、戦闘で闘った英軍や、その英軍に協力したチャイナ系の抗日ゲリラだけでした。


ミャンマー(旧ビルマ)

ビルマ独立義勇軍

アジア人の前衛たる日本人は、自らの社会経済的進歩と教育の発達のみを求めて闘いを進めたのではない。インド・ビルマ・チャイナ・フィリピン・スマトラなどにおいて、政治的にも経済的にも足かせをはめられて抑圧されていた人々のために闘ったのである。


インド

ラダ・ビノード・パル極東国際軍事裁判判事

欧米諸国は日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって、自分らのアジア侵略の正当性を誇示する目的であったにちがいない。日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、退廃に流れていくのを、私は平然と見過ごす訳にはゆかない。誤られた彼らの宣伝を払拭せよ。誤られた歴史は書き換えられなければならない。


タイ

ククリット・プラモード元首相

日本のおかげでアジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母胎をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。こんにち東南アジア諸国民が、米・英と対等に話ができるのはいったい誰のお陰であるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。12月8日は我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して、重大決心をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない。


今日はインドの話をしてみたいと思います。

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スバス・チャンドラ・ボース(インドの独立運動の指導者)がインド人民に向けて訴えた演説の一節をご紹介しましょう。「…大東亜戦争開始以来、歴史に較べるもののない日本軍の勝利はアジアのインド人に感銘を与え、自由獲得の戦いに参加することを可能にした。日本政府は単に自己防衛のために戦うだけでなく、英米帝国主義のアジアからの撲滅を期し、さらにインドの完全な独立を援助するものである。いまやインド国民軍は攻撃を開始し、日本軍の協力を得て、両軍は肩を並べ、共同の敵アメリカ・イギリスの連合国に対し、共同戦線を進めている。外国の侵略の軍隊をインドから駆逐しない限り、インド民衆の自由はなく、アジアの自由と安全もなく、英米帝国主義との戦争の終結もない。」(1944年3月20日自由インド放送より)


インドは17世紀初めより、ヨーロッパの植民地主義の標的となり、最終的にはイギリスのたび重なる侵略によって、ついにムガール王朝が滅ぼされ、イギリスの植民地とされてしまいました。イギリスの略奪的経済搾取は、土地の収奪、自給自足農業の破壊、当時世界一を誇ったインド綿製品の破壊にとどまらず、過酷な重税を課しました。インド民衆は食糧不足などにより、18世紀にベンガル地方で1000万人、19世紀には南インドで1500万人が犠牲になったといわれています。


このようななか、インド人に驚きと勇気を与えたのが、日露戦争における日本の勝利でした。日露戦争とは、当時は白人に支配されるのが当然と思われていた有色人種の小国日本が、白人の軍事大国ロシアに対し、大方の予想を裏切って大勝利を収めた世界史上初めての戦いです。この勝利の報は多くの有色人種に感銘を与えました。後年、インドの初代首相ジャワハルラル・ネルーは「日本が大国ロシアを破ったとき、インド全国民は非常に刺激され、大英帝国をインドから放逐すべきだという独立運動が全インドに広がったのだ。」と言っていますが、事実、この勝利をきっかけに、植民地化されていたアジアから、多くの独立運動家が日本にやってきました。


彼らは独立運動を徹底的に弾圧する宗主国の追っ手をのがれて、日本にかくまわれ、白人支配者から独立する機会を狙っていたのです。そして、1941年(昭和16)12月8日、日本がアメリカとイギリスに宣戦布告をすると、インド人の同志たちは「インド独立連盟」を東京で旗揚げし、翌年には東南アジア各地に散らばっていたインド独立運動家を集めてインド独立を誓う「東京会議」を開くなど、日本はインド独立闘争の拠点となりました。


ところで、あまり知られていないことですが、この戦争で、日本が戦っていたイギリス軍の兵隊のうち、約7割は、イギリス植民地で徴発されたインド人の兵士だったのです。いわゆる「英印軍」と呼ばれたインド人兵士たちでした。ですから、植民地化されたアジア諸国からヨーロッパ勢力、特にイギリスを追い出すためには、インド人兵士がイギリス軍兵士として、宗主国イギリスのために戦うのをやめさせなければなりません。


そのため、日本政府は、インドの独立を全面的に支援するため、藤原岩市少佐を中心とした十名足らずの「F機関」という組織を作りました。「F機関」という名は、フジワラ・フリーダム・フレンドシップの頭文字をとって、こう呼ばれたのですが、彼ら機関員はその言葉通り、命がけで日本とインドの共闘を訴えました。イギリス植民地マレー半島の戦場で、イギリス側に立つインド人兵士たちに「インド独立のために、日本と共にイギリスと戦おう。」と降伏を呼びかけていったのです。


最初は半信半疑だったインド兵たちも、F機関員たちが敗残兵である自分たちを差別することなく、一緒のテーブルを囲んで、食事をする事に驚きを隠せませんでした。さらに藤原機関長は、日本軍が占領したマレー半島の治安維持を、なんと投降してきたばかりの、彼らインド人捕虜に任せたのです。この申し出にインド人兵士は驚くと同時に、大変感動したといいます。こうして、投降インド兵の数は、どんどんふくれあがり、最終的には5万人というインド兵が、イギリス軍を裏切って投降してきたのです。


ここに、インド人による、インド独立のための、インド人の軍隊「インド国民軍(INA)」が誕生しました。一方、スバス・チャンドラ・ボースはこの時イギリスと敵対していたドイツに亡命し、独立運動を展開していました。しかし、ドイツ首脳はインドがイギリスから独立することは、少なくともあと150年は不可能だと考えており、ボースを落胆させてしまいます。


ドイツでの独立闘争の可能性を断たれたボースは、日本が英印軍を組織し始めたことを知り、インド独立闘争のための協力は日本に求めるべきだと判断して、ドイツから日本に行くことを決意します。そして、ついにボースは、彼の到着を待つ1万5千名のインド国民軍兵士の前に姿を現します。1943(昭和18)年7月5日のことでした。


この日、彼はインド国民軍兵士たちに向かって、2時間近くにおよぶ大演説をおこないました。「同志諸君!兵士諸君!諸君の合言葉は『デリーへ!デリーへ!』である。われわれの任務は、イギリス帝国最後の墓場、古都デリーのラール・キラに入城式をおこなう日までは終わらないのである。…われわれはこれより、デリーに向かって進軍する。チェロ・デリー(征け、デリーへ)!」ボースがこう叫んだとき、国民軍兵士ばかりでなく、この演説を見に来ていた、2万のインド民衆も、声をそろえて「チェロ・デリー!チェロ・デリー!」と唱和し、その場の熱狂は最高潮に達しました。


この翌月、8月1日には日本によって、ビルマが独立を達成し、バー・モウが首相に就任しました。(詳しくはビルマ編を参照。)ボースはこの独立祝典に出席し、同じくイギリスの圧政に苦しめられていたビルマ民衆の万歳の声を聞き、日本が独立の約束を果たしたことに感銘を受けました。イギリスはインドと交わした約束を何度も破ってきたからです。眼前で歓呼するビルマ民衆の姿に、ボースは近い将来のインド民衆の姿を重ね合わせていました。


ところが、このときすでに日本軍は、勢いを盛り返してきた連合軍の猛反攻に遭い、ガダルカナルからの撤退を余儀なくされるなど、戦局に不安の影が差し始めていました。しかし、ボースはインド国民軍の司令官に就任すると同時に、自由インド仮政府の主席となり、独立政府を組織します。そして、ただちにイギリス・アメリカに宣戦を布告したのです。


悪化する一方の戦局を打開するため、日本軍とインド国民軍が、最も悲劇的な戦いとして名高いインパール作戦に勝負を賭けたのは、その翌年、1944年(昭和19)3月のことでした。この戦いで敵方として戦った、イギリス軍東南アジア総司令部司令官マウントバッテン大将は回想記のなかで、こう記しています。「かつて不敗を誇った日本軍も半年の死闘に衣服や靴もボロボロとなり、ささえるものは不屈の精神力だけであった。日本軍はインパールにおいて、ついに敗れたが、そこには何かが残った。それは歴史学の権威トインビーがいみじくも喝破したとおりである。すなわち『もし、日本について、神が使命を与えたものだったら、それは強権をわがもの顔の西欧人を、アジアのその地位から追い落とすことにあったのだ』」(ルイス・マウントバッテン『ビルマ戦線の大逆襲』)


「何かが残った…」その「何か」については、インドの民衆たちがいちばんよく知っています。


インパール手前15キロのロトパチンという村では、村民たちが自主的に作った日本兵の慰霊塔があり、毎年、日本兵の供養が続けられています。ロトパチン村の村長は「日本兵は飢餓の中でも勇敢に戦い、この村で壮烈な戦死を遂げていきました。この勇ましい行動はみんなインド独立のためになりました。私たちはいつまでもこの壮烈な記憶を若い世代に伝えて行こうと思っています。そのため、ここに日本兵へのお礼と供養のため、慰霊祈念碑を建てて、独立インドのシンボルとしたのです。」と語っています。


また、激戦地となったコヒマに住むナガ族は、そこに咲く可憐な花に「日本兵の花(ジャパニーズ・ソルジャーズ・フラワー)」という名を付けています。この花は非常に生命力が強くて、少々のことでは枯れることがなく、しかも群生して仲良くいっせいに咲き始める野草です。このような花の性質が、死闘のなか、弾薬も尽き、ボロボロになりながらも、みんなで力を合わせて、敵に立ち向かっていく、そんな日本兵のすがたに重ね合わせられ、名付けられたのだということです。コヒマの人々は、花に名を刻み、日本兵が倒したイギリス軍の戦車を今も勇気のシンボルとして大事に保存しています。


インパール作戦は決して無駄ではありませんでした。確かに、あまりに多くの犠牲を払いはしましたが、「何か」、つまりインドの独立という大きな歴史を残したのです。このように遠く離れた地で、今でも日本人に感謝してくれている人々がいるということは、祖先がわたしたちに残してくれた大きな財産だといえるでしょう。


不運な飛行機事故に遭い、命を落としたボースのもとで共に独立をめざして戦ってきたインド国民軍(INA)兵士たちには、過酷な運命が待っていました。勝者イギリスが、ボースの指導したインド国民軍の将兵19500名を、イギリス国王に対する忠誠に背き、敵に通謀し、利敵行為をおこなったという「反逆罪」で軍事裁判にかけることになったのです。イギリスはこの「反乱」を、セポイの反乱(1857年)以来の大不祥事と考え、これを厳罰に処し、見せしめにすることによって、これから先のインド統治を揺るぎないものにしようとしたのでした。イギリスは決して、植民地支配をやめようとは思っていなかったのです。


しかし、この愛国者であるインド国民軍を「反乱軍」だとして裁くという措置に、インド全土では2年間に及ぶ大規模な反乱がつづきます。イギリスも軍隊を派遣し、徹底的な弾圧につとめるなど、流血の惨事があちこちで起こりました。さらに、イギリス軍によって、拘留されていた国民軍兵士たちの監獄からは、ボースの決めた国民軍の合言葉「チェロ・デリー!チェロ・デリー!」の声が、毎日響き渡りました。インド民衆も、「愛国の英雄を救え!」「INA全員を即時釈放せよ!」と叫びながら、警戒厳重な監獄にデモ行進をし、監獄の内と外で、「チェロ・デリー!」の大合唱が起きました。ついに1947年5月、イギリスは軍事裁判の中止をやむなく決定、8月にはインドの独立を認めざるを得なくなりました

こうして、インドが200年もの長きにわたるイギリスの植民地支配を脱したのは、この日を夢見たチャンドラ・ボースの死後、2年目の夏のことでした。


その後も、インドは、敗戦にうちひしがれた日本に対して、厚い友情を示してくれました。

敗戦国を裁く極東軍事裁判では、連合国側が日本を弾劾しつづけるなか、ただ一人、インド代表のパール判事だけが日本の無罪を訴えたことはあまりにも有名です。


また、インドはサンフランシスコ講和会議への参加を拒否しました。それは、勝者=連合国側の、日本に対する懲罰的な条約に反対してのことであり、日本に対する賠償も放棄しています。それどころか、インド独立運動家で、戦後、国会議員になったマハンドラ・プラタップ氏は「日本に対してこそ賠償を払うべきだ」という「逆賠償論」を主張しました。

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4カ国の「歴史的事実」により日本軍がアジアで果たした役割を書いて見ました。基本的には同じ考え方で東アジアに対しても進出したと考えられますが、中国・韓国はそれを認めないばかりか数々の「捏造」をベースに日本批判を続けています。

 

最近思うことがあります。なんとかして友好的な関係を構築しようと戦後様々な努力してきた日本ですが、両国は右頬だけでななく素直に出す左頬も容赦なく殴りつけます。この関係は「価値観の違い」によるものですからいくら時間をかけてもその関係は良くならないのではないか?と。

 

キリスト教とイスラム教の対立が、いくら歴史を重ねてもおさまらないのと同様に、中国・韓国(北も含む)はこれから先どのようなことをしても理解し合えないと思えてなりません。仏教・儒教・文字(漢字)など中国発祥の文化を共有する我々なのに・・・。

 

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なお、この記事も「教科書が教えない歴史」を抜粋・加筆させていただいたものです。

http://www.jiyuu-shikan.org/faq/index.html